なぜ振り返りは「楽しかったです」で終わるのか

教育

「今日は楽しかったです」で終わる振り返りを見るたびに、語彙力の問題だろうかと感じたことはないでしょうか。実はこの現象、子どもの言葉の乏しさではなく、振り返りを書く直前に「今日みんなが分かったこと」がすでに黒板に書き切られているという、授業の構造そのものに原因があります。この記事では、その構造を三段階に分けて見ていきます。

現場の場面

授業の終わり、黒板には「まとめ」が書かれています。「三角形の面積は、底辺×高さ÷2で求められる」。子どもたちはそれをノートに写し取り、写し終えるとすぐに「今日の振り返りを書きましょう」と指示が出ます。ノートを開いた子どもたちの多くは、少し手を止めてから「楽しかったです」「むずかしかったけどできてよかったです」と書いて終わります。担任としては、もう少し自分の言葉で書いてほしいと感じますが、語彙が乏しいわけでも、やる気がないわけでもありません。たった今、自分の手で黒板の「正解」をノートに書き写したばかりで、それ以外に何を書けばいいのか、見当がつかないのです。算数に限らず、国語の読解や社会の調べ学習でも、同じ形の振り返りをよく見かけます。

構造の解説

振り返りで本来子どもに書かせたいのは、「今日の授業を通じて、自分がどう変化したか」という、その子だけの個人的な変容の記述のはずです。しかし問題解決型学習の授業は、終盤で教師とクラス全体が「今日みんなが分かったこと」を一つの文にまとめます。このまとめは、実質的には模範解答であり、その時点ですでに「クラス全体としての変容」を一つの正解として言い切ってしまっています。

子どもが振り返りに書くべきなのは、このまとめとは別の次元にある「自分だけの変容」です。ところが、模範解答がすでに黒板に提示された状態で、それとは違う言葉を自分の力で新しく考え出すことは、白紙の状態からゼロベースで考えるより、実は認知的な負荷が大きい作業になります。目の前に「正解」がある以上、それをなぞらずに別のことを書くには、まとめの内容をいったん脇に置き、自分の内側だけを探るという、余分な作業が必要になるからです。

この負荷を吸収できるかどうかは、その子の意欲や表現力ではなく、その時点で認知的な余力が残っているかどうかに左右されます。余力のある子は、「まとめと同じことを書くと評価されない」と経験的に学習し、無理をしてでも別の言葉を探しにいきます。一方、話し合いや練習ですでに余力を使い切っている子は、何も出せないまま、当たり障りのない「楽しかったです」で振り返りを終えることになります。

そして実際には、この二つの中間にもう一つ、最も多く見られる結果があります。まとめとほとんど同じ内容を、言い回しだけ変えて書くという振り返りです。これは手抜きではありません。目の前に正解が示されている以上、それを写すことが認知的に最も負荷の低い選択肢だからです。「振り返りとまとめが結局同じになってしまう」という多くの教員が抱える悩みは、子どもの怠慢ではなく、この構造の当然の帰結として説明できます。

エビデンス

この現象は、いくつかの理論から説明できます。自己説明効果(Chi et al., 1989, 1994)は、学習者が因果関係やつながりを自分の言葉で説明的に生成する過程が理解の定着を促す、という高い証拠水準を持つ知見です。ただしこの研究は主に解法例(worked example)の学習を対象にしたもので、振り返りへの適用は理論的な類推にとどまります。また、経験そのものよりも経験への省察が学びを生むという考え方には、デューイの経験と教育論、コルブの経験学習モデル(経験→省察→概念化→実践)という理論的な系譜があります。さらにメタ認知研究(Flavell, 1979)を踏まえると、振り返りは「自分の思考について考える」プロセスのはずですが、まとめが先に提示されることで思考の対象そのものが上書きされ、振り返りの材料が残らなくなっている可能性が考えられます。

留保

自己説明効果そのものの証拠水準は高いものの、「振り返り」「まとめ」への適用は直接検証されたものではなく、理論的な類推であることに留意してください。ここでの主張は「教えて考えさせるが正しい」ではなく、「この構造だとこうなりやすい」という水準にとどまります。

なお、この論法は教えて考えさせる側にも同じ厳密さで当てはめる必要があります。教えて考えさせる授業もまとめを先に提示する以上、そこで「今日分かったことを書きましょう」と問えば、同じ上書きが起こるはずです。つまりここで効いているのは方法論そのものではなく、振り返りに何を問うかという設計です。ただし問題解決型学習の場合、共通の型が事前に渡されていないため、「型をどう使ったか」を問おうにも、子どもの側に共通の対象が存在しません。この点だけは、運用ではなく構造の差として残ると考えられます。

「教えて考えさせる」との対比

教えて考えさせる授業では、まとめ(模範解)を先に教師が説明し、その後で理解確認・理解深化というフェーズに進みます。そのため模範解が後から出てきて子どもの生成物を上書きする、という事態がそもそも起こりません。振り返りに書けるのは「今日みんなが分かったこと」の再確認ではなく、教わった説明や技法を自分がどう使って問題を解いたか、どこで引っかかり、どう乗り越えたか、そこからどう応用できそうかという、自分自身の使用経験です。与えられた知識をどう使いこなせたかという内省こそ、自己説明効果が本来対象としてきた「自分の言葉での生成」に近い活動だと言えます。

まとめ

「楽しかったです」で終わるのは、語彙の問題ではありません。まとめが先に正解を言い切ってしまう構造が、その子だけの変容を書く余地を奪っているのです。振り返りの指導は、書かせ方の工夫の前に、まとめのタイミングを見直すところから始まります。

次回予告・関連記事

共通の型を渡すことがなぜ前提になるのかは、型を教えると、自由は奪われるのか(C5) で詳しく扱っています。

まとめと振り返りが重複するという問題そのものが、どういう経緯で生まれたのかは、「めあて」と「まとめ」はなぜ生まれたか(C3)で扱っています。

このほか、振り返りの浅さを大人数討論のワーキングメモリ負荷という別の角度から説明する記事(D7)、振り返りがそもそも問題解決型学習の理論的な核だったという歴史的背景を扱う記事(C7)、思考は外から観察できないという評価の限界を扱う記事(N2)、教えて考えさせるにおける「考える力」の定義を扱う記事(F3)も、近日公開予定です。

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