『めあて』と『まとめ』はなぜ生まれたのか

教育の“思い込み“をゼロから疑う

授業の最初に「めあて」を板書し、最後に「まとめ」を書く。多くの学校で当然の型になっています。でも、この型はいつ、なぜ生まれたのでしょうか。本記事では「これは仮説ですが」と断ったうえで、めあてとまとめは問題解決型学習を前提としたときにこそ必要になる装置ではないか、という見方を検討します。両者が無意味なのではなく、設計思想が変わればその位置づけも変わる、という話です。

「あって当然」になった型

研究授業のあと、協議会でこんな助言を受けたことはないでしょうか。「本時のめあてが板書されていませんでしたね」「次からは最初にめあてを示しましょう」。初任者研修から校内研修まで、めあてとまとめは繰り返し重要視されます。板書計画には最初にめあて、最後にまとめの枠があらかじめ刷られ、指導案の様式にも組み込まれている。もはや「なぜ必要か」を問う前に、「あって当然のもの」として運用されています。けれど、その根拠を自分の言葉で説明できる人は、意外と多くありません。

めあて・まとめが要請される構造(仮説)

ここから先は仮説です。データのある話ではなく、構造から逆算した推測だと理解してください。

まず「めあて」から。問題解決型の授業では、子ども一人ひとりが自分の考えを出し合うことが軸になります。すると、その1時間で全員がどこに到達するのかを、授業の最初の時点で共有しづらい。誰が何を発見するかは、やってみないと分からないからです。この「共通ゴールの不在」を外から補うために、あらかじめ言葉でゴールを掲げておく装置が要る。それが「めあて」ではないか、という見立てです。

次に「まとめ」。問題解決型では話し合いに前半の大半を使うため、全員が解けるようになったかを確認しないまま時間切れを迎えやすい(この点は前回のC1で扱いました)。到達を確認できないまま終えるわけにはいかないので、「今日はこれが分かりました」と教師が言葉で締める。この帳尻合わせが「まとめ」ではないか。つまり両者は、問題解決型が抱える「ゴールと到達の不確かさ」を言葉で埋めるために要請された、と考えると筋が通ります。

エビデンス

正直に述べます。めあて・まとめが「いつ・なぜ生まれたか」を示す一次資料を、私は確認できていません。発生の経緯には、はっきりとした裏づけがないというのが実際のところです。ですから、ここまでの説明はあくまで仮説にとどまります。

一方で、観察できる事実もあります。教育委員会が配る授業の手引きや研修資料では、めあては「学習の見通しをもって主体的に学ぶため」のもの、まとめは「めあてに対して何を学んだかを明確にする」ものと説明されています。子どもの問いやつぶやきを生かすという問題解決的な文脈に置かれることも多い。発生の因果は不明でも、めあて・まとめが問題解決型の学びと制度的に強く結びついていること自体は、資料から確かめられます。

留保

ここで述べたのは、あくまで「そう考えると整合的だ」という仮説です。めあて・まとめそのものが無意味だと言いたいのではありません。発生の経緯にデータがない以上、断定は避けます。目的が明確なめあて、到達を確かめるまとめは、当然役に立ちます。

「教えて考えさせる」との対比

では「教えて考えさせる授業」ではどうでしょうか。最初の説明で「今日はこの問題が解けるようになる」という到達点がはっきりしています。ゴールが授業に内在しているので、それを外から言葉で掲げ直す必要性は下がります。まとめも同じで、理解確認の場面で「解けたかどうか」を実際に確かめるため、最後に言葉で締めなくても到達は見えている。結果として、まとめと振り返りが重複し、振り返りが形だけになる問題も起きにくい。めあて・まとめは、設計思想が変われば位置づけごと変わるのです。

まとめ

めあてとまとめは、問題解決型が抱える「ゴールと到達の不確かさ」を言葉で補う装置——これは仮説ですが、そう見ると型の必然性が理解できます。設計が変われば、型も変わります。

まとめカード 設計思想が変われば型の位置づけも変わる

次回予告

次回はC2「『子どもの考えに価値がある』が、修正を不可能にする」。子どもの考えを尊重する価値観が、なぜ間違いの修正を妨げてしまうのか——めあて・まとめとは別の角度から、問題解決型の自己矛盾を掘り下げます。

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