型を教えると、自由は奪われるのか

教育

型を教えると、子どもの自由な発想が消える。そう語られることがあります。しかし順序が逆かもしれません。型は自由を奪う檻ではなく、自由な判断のための土台です。では、なぜ多くの授業は「型を渡した」ところで止まるのか。原因は個々の教師の力量ではなく、1時間という時間の区切り方にあるのではないでしょうか。

「教えたのに使えない」が起きるとき

型を教えた直後の授業を思い浮かべてください。子どもは教わった通りにやってみせます。ところが次の時間、別の単元に移った途端、その型は姿を消します。応用問題を出しても、条件を少し変えるだけで手が止まる。あるいは、その型を使えば早いはずの場面で、以前と同じやり方に戻っている。

「教えたのに使えない」と感じる場面です。しかしこれは、理解が浅いからとは限りません。型を「使いこなす」段階まで到達する時間が、そもそも授業設計の中に用意されていないだけかもしれない。そう考えると、見え方が変わります。

型は檻ではなく、土台

武道や芸事で使われる守破離という言葉を借りると、この構造は整理しやすくなります。

守は、教わった型をそのまま適用する段階。破は、発展的な内容に対しても、その型を活用できる段階。離は、次の単元や次の日の授業で、教えられていないのに自分から型を持ち出せる段階です。

型が自由を奪うという理解は、この整理に照らすと逆転します。型は自由な判断・応用、つまり破と離のための前提であり、問題は型の存在ではなく「型で工程が止まってしまうこと」にあると整理できます。とりわけ、自力で型を組み立てる余力の乏しい子にとって、守の段階が確実に渡されることの意味は大きいと考えられます(この点は別記事のワーキングメモリ・支援の漸減で詳しく扱います)。

「教えて考えさせる」は、どこまで届く設計か

「教えて考えさせる授業」は、説明・理解確認・理解深化という三つのフェーズで進みます。この流れを守破離に重ねると、対応が見えてきます。

説明のフェーズで型を渡し、理解確認のフェーズで型をそのまま適用させる。ここが守にあたります。続く理解深化のフェーズで、発展的な内容にも型を使わせてみる。ここが破にあたると読めます。

つまり「教えて考えさせる授業」の1時間は、守と破のところまでを設計に組み込んでいる、と解釈できます。逆に言えば、離は1時間の外にあります。次の単元、次の日の授業、あるいは思考を要する応用問題に出会ったとき、自分から型を持ち出せるかどうか。ここは1時間の授業設計だけで到達できる範囲ではありません。

離までの距離を縮めるには、型が自動化されるだけの時間と反復が要ります。これは教える技術というより、時間の問題だと考えられます。守破離が1時間では終わらない、というのはこの意味においてです。

「離」は、外から見える

もう一つ、実務上の利点があります。

思考そのものは内部の状態であり、外から観察することはできません。ところが破や離の段階は、外から見えます。教師が促していない場面で、その子が型を取り出して使ったかどうか。この事実だけは、外側から確認できます。観察できない思考をどう評価するかという難題に対して、数少ない手がかりになりえます。

実際に、理解を深める課題へ自由に取り組ませる中で、渡した型を自分なりに工夫して使う子どもが見られる場面がありました。破の段階が現れた一例と見てよいはずです。

離の実例は、今回あえて挙げていません。離は次の単元や次の日の授業という、1時間の観察の外で起きる出来事だからです。1時間の授業記録だけを見ていては、離が起きたかどうかはそもそも分かりません。これも、離が1時間では完結しない、という構造の一部だと考えられます。

全員が離に届かなくてよい

ここで注意したいことがあります。破や離は、すべての子が到達しなければならない到達目標ではありません。

大事なのは、まず守が確実に渡ることです。型を守れる。そこが土台になります。そこから先へ進む速さには差がありますし、1時間の中では届かないのが普通です。単元が終わる頃に少しずつ現れてくる。離となれば、さらに長い期間で見ていくものです。

だから、離に届かない子がいることを、その子の資質の問題として読む必要はありません。単に、その時間軸では届かない範囲の話だというだけです。

エビデンスと留保

守破離は、武道・芸事の指導論として長く使われてきた枠組みです。ただし、実証された発達段階論ではありません。この記事では、比喩・整理の道具として扱っています。

段階を刻んで支援を減らしていく設計や、習熟に時間と反復を要することについては、指導研究の中で一定の裏づけがあります。しかし「守・破・離という三段階で子どもが発達する」ことが検証されているわけではありません。「教えて考えさせる授業」の三フェーズとの対応も、構造が似ているという解釈であって、同じものだと断定するものではありません。記事中の教室の例も、再現性が確認された効果ではなく、一つの観察です。

型を渡すと、みんな同じになるのか

型を渡せば子どもの多様さが消えてしまうのではないか。そう感じる方もいるはずです。

しかし型は多様さを消すのではなく、多様さを表現するための土台になるはずです。共通の型があるからこそ、その上で個々の子どもが型から外れた発想を出せる。破や離とは、そういう段階です。型のない状態の「バラバラ」は、多様さではなく、ただ互いに理解できないだけかもしれません。同じ理由で、話し合いが成立するかどうかも、共通の前提がどれだけ揃っているかに左右されると考えられます(この論点は別記事で扱います)。

問うべきは、型の有無ではない

型は自由の敵ではなく、自由の入口です。そして守で止まってしまうのは、型を渡したせいではありません。渡した後の時間がないからです。

問うべきは型を渡したかどうかではなく、破・離に向かう時間が設計の中に組み込まれているかどうか。この問いに変えると、授業の時間配分は違って見えてきます。

次回からは、認知科学の核に踏み込む段に入ります。次は「『知っている』と『自動化されている』は別物」を扱います。


本シリーズは「教えて考えさせる授業」(市川伸一)を支持する立場から、問題解決型学習の構造的な課題を検討するものです。問題解決型学習そのものを否定するのではなく、現在の日本の公立小学校という条件下でその前提が成立しているかを問うことを目的としています。

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