「言うことを聞かせる」という言い方を、私は使わなくなりました。使えないからです。教室で最終的な決定権を握っているのは、実は子どもの側だと考えられるからです。この記事は実践編(Q系)の入り口にあたります。個々の技術を紹介する前に、なぜ教師にエビデンスに基づく技術が必要なのか、その前提を先に共有しておきます。

決定権を持っているのは、どちらでしょうか
制度の上では、教師の側に見えます。教師は指示を出し、評価をつけ、学級のルールを決めます。
けれども実際の教室を思い浮かべてください。ある子が「今日は書かない」と決めたとき、その決定を覆す手段を、教師はどれだけ持っているでしょうか。声をかけることはできます。理由を聞くこともできます。しかし最後に鉛筆を持つかどうかを決めるのは、その子自身です。
この非対称は、うまくいっている学級では見えません。見えないだけで、なくなってはいないと考えられます。
権威が効くのは、受け取られたときだけ

教師が持っているのは、制度上の権威です。ただし権威は、相手がそれを権威として受け取ったときにはじめて効力を持ちます。受け取らないと決められた瞬間、指示は音声に戻ります。
加えて、義務教育の学校は原則として子どもの在籍そのものを拒むことができないとされています。私立学校が持つ「退学」にあたる最終手段を、公立の義務教育は基本的に持ちません。関係を降りられない側と、降りることのできる側。この意味で、実質的な決定権は子どもの側にあると考えられます。
制裁が機能する条件
では叱責や罰はどうでしょうか。これらが制裁として働くのは、子ども自身がそれを制裁として受け止め、従うことを選んだときだけです。受け止めないと決めた子に対して、強く言うという手段はほとんど効果を持ちません。
ここで大切なのは、これを子どもの問題として読まないことです。従わないのは反抗ではなく、構造がもともとそうなっているだけです。制裁で動かせないのは教師の力量が足りないからではなく、制裁という手段がもともとそういう性質を持っているからだと考えられます。
だから、技術が要る
ここまでは一見、教師にとって絶望的な話に見えるかもしれません。しかし結論は逆です。制裁では動かせないという前提に立つと、教師にできることが明確に絞られます。子どもの側に「聞こう」と思ってもらえる関わり方を、意図的に設計することです。
「言うことを聞かせる」ではなく「言うことを聞いてもらう」。これは譲歩でも弱さでもありません。決定権がどこにあるかを正確に踏まえた、正確な言い方です。聞かせることは原理的にできないけれど、聞いてもらうことはできる。できる方に労力を集中させるという、技術的な判断です。
この記事の証拠水準は「中」です。権力構造の整理は論理的な観察であり、実証研究に基づく主張ではありません。制度に関する記述も、一般に知られている事実として扱っており、法的な根拠まで確認したものではありません。
「聞いてもらう」は、手続きとして積み上げられる
聞いてもらえるかどうかは、人柄や相性の問題に見えるかもしれません。けれども、聞いてもらえる関係をどう作るかは、ある程度まで分かっています。
Iメッセージは、最終決定を子どもに残したまま依頼を伝える形式でした。褒めると認めるの使い分けは、評価者として上に立たずに承認を返す方法でした。フィードバックの質と量、シェイピングによる段階設計も同じ系統です。どれも言うことを聞かせるための道具ではなく、聞いてもらえる関係を、心構えではなく手続きとして積み上げるための道具です。
エビデンスを持って対応できること。それがこの構造の中での、教師の専門性そのものだと考えています。

まとめ
決定権が子どもの側にあることは、脅威ではなく前提です。前提が分かれば、打つ手は具体的になります。聞かせようとして消耗するかわりに、聞いてもらえる条件を一つずつ設計していく。Q系で紹介する技術は、すべてそのための手段です。

次回予告
次回からは、この「聞いてもらう」を実際に組み立てる技術を一つずつ扱います。まずはIメッセージの2段階から。
なお本記事は、Q系の最後に置く「子どもを大切に思うとは、具体的に何をすることか」(Q17)と対になります。こちらが「なぜ技術が必要か」を、Q17が「技術の総体は何を意味するか」を扱います。教師の責任がどこまでかという論点は、本編「責任移行モデルの不在」(I3)で改めて扱います。
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