トラブルが起きたあと、話し合いの場を設けて「もうしません」と約束させる。その場では全員が神妙な顔でうなずいている。ところが翌日、まったく同じことが繰り返される。「またか」と思いながら、もう一度同じ話し合いの場を設定する。この繰り返しに、徒労感を覚えたことがある先生は少なくないはずだ。
なぜ守られないのか。子どもの意欲や誠実さの問題として片づけられがちだが、実際には約束させるという方法そのものに、いくつもの構造的な無理がある。順に見ていく。

「わかっている」ことと「その場でできる」ことは別の能力
言葉で交わした約束を実際の場面で自分の行動に反映させるには、衝動を抑え、状況に応じて行動を切り替える力(実行機能)が要る。この力は児童期を通じて発達の途上にある。つまり「わかっている」ことと、その場で「できる」ことは別の能力である。約束が守られないのは、多くの場合、理解の欠如ではなく、理解を行動に変換する仕組みがまだ育っていないことによる。
行動分析の枠組みでは、言葉によるルールに従う行動と、実際の状況とのやり取りの中で形作られる行動を区別する。約束は前者であり、教室で実際に起きる行動は後者に強く左右される。両者は一致するとは限らない。
本気で「できる」と思っている
もう一つ見落とされがちなのが、子ども自身は嘘をついていないという点だ。その場では本気で「次はできる」と思って約束している。自分の能力を実際より高く見積もる傾向は、注意や自己統制に困難を抱える子どもを対象にした研究で報告されている。ただし、これはある特定の研究群から得られた知見であり、通常学級の子ども全般にそのまま当てはめられるかどうかは、現時点では分からない。
全員が挙手している場で「できない」と言えるか
話し合いの場そのものにも構造的な問題がある。全員が「がんばります」と挙手している空気の中で、一人だけ「自分には無理です」と言える子どもはほとんどいない。その場を丸く収めるために、望ましいとされる答えを口にしているだけ、という可能性は常にある。黙従バイアスとして広く確認されている現象だが、学級会という具体的な場面でどの程度の強さで働くのかは検証されていない。いずれにせよ、子どもの誠実さではなく場の設計の問題である。
もっとも見落とされている害
守れなかった約束は、「自分は約束を守れない人間だ」という自己認識として内面化されうる。一度そう思い込むと、以後の行動もその自己像に沿うように寄っていく。ラベリングと自己成就予言の連鎖である。

この内面化を後押ししてしまうのが、約束が守られなかったときにかける言葉だ。「約束したよね。やって当然でしょ」というひとことは、それ自体がラベリングとして働く。「当然できるはず」という前提で語られるほど、できなかった側には「当然のことすらできない自分」という認識だけが残る。この声かけが悪いというより、約束という形式を選んだ時点で、こうした声かけがほぼ自動的に誘発される、という構造の問題である。
この指導法は「子どもに考えさせる」「子ども主体」という、一見すると優しく民主的な外観をまとっている。しかし実際にやっていることは、達成できるかどうかの難易度設定という、本来教師が引き受けるべき責任を、そのまま子どもに転嫁しているにすぎない。優しく見える指導ほど、最もリスクの高い負荷を子どもに背負わせてしまっている場合がある。
では、どう設計し直すか
3つの代替案を挙げる。
1. 先行条件を調整する
失敗する場面そのものが起きにくいよう、環境の側を先に整える。責任は子どもの意志ではなく、環境設計の側に置く。
2. 約束するなら極小単位から
「今日の1時間目だけ」「30秒だけ」など、確実に達成できる水準から始め、少しずつ引き上げる。行動分析でいう段階的な基準の引き上げに対応する。難易度設定の責任は常に教師が持つ。
3. 提案し、選択を委ねる
命令ではなく「こうしてくれると助かる」という提案の形にし、実行するかどうかは子どもに委ねる。この形なら「約束を破った」という失敗の概念が発生しない。詳細は次回以降で扱う。

この方法にも機能しない条件がある
ここまでの設計は、教師の言葉かけが関係性という土台の上で届く、という前提に立っている。この前提が常に成立するわけではない。
称賛という関係性を土台にした働きかけには、機能しにくくなる条件がいくつかある。

ひとつは、称賛の種類のミスマッチである。人格そのものへの称賛は、自己評価が低い子どもにおいてはかえって逆効果になりうることが実験的に示されている(Brummelman et al., 2013)。
もうひとつは、行動の機能のミスマッチだ。問題行動が注目によって維持されているとは限らない。課題からの回避や感覚的な理由で維持されている行動には、称賛はそもそも関係する要因ではない。
さらに、場面のコストもある。思春期に近づくほど、教師からの公然の称賛が仲間内での立場を損なうコストになりうる。効かないのではなく、別の欲求と競合して負けている。称賛の効果が受け手側の条件で大きく変わることは、レビュー研究でも指摘されている(Henderlong & Lepper, 2002)。
加えて、社会的な称賛という報酬の受け取り方そのものに違いがある子どもたちもいる。その場合には、関係性に依存しない別の仕組み(トークンや具体物、活動へのアクセスなど)に切り替えるという選択肢を、設計の一部として持っておく必要がある。これは子どもの側の欠けている点ではなく、こちらが用意する仕組みの選び方の問題である。
おわりに
約束させて守られないのは、指導への熱意や愛情が足りないからではない。何を優先し、なぜその方法を選ぶのかという設計が、そもそも組まれていないだけだ。
同じことが、逆の方向にも起きている。「褒めるのが上手な先生ですね」と評されることへの違和感も、根っこは同じ構造だ。技術として設計され、再現できるはずのものが、個人の性格や人柄に還元されている。次回はこの点を掘り下げる。

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