頭を使わなくていい仕事と、頭を使う仕事の差は何でしょうか。丸つけや出欠確認はほとんど無意識のうちに終わるのに、初めて見る指導案の検討や、慣れない保護者への文面作成には妙に体力を消耗します。この差の正体をたどりながら、実は同じ疲れを、教室の子どもたちにも強いている可能性について考えます。

同じ一日の中に、まったく違う2種類の仕事がある
放課後、山のような丸つけを前にしても、手はほとんど勝手に動いて終わっていきます。ペンを持ちながら別のことを考えていられることも珍しくなく、翌朝に疲れが残ることもありません。
ところが、初めて受け持つ学年の指導案を検討する時間は、たった1時間でも机に向かうこと自体に気力が要ります。文言を一つ選ぶのにも時間がかかり、終えた後は他の作業に手をつける気力が残っていないこともあります。
同じ日の、同じ「仕事」です。それなのに帰り道の疲れ方はまるで違い、慣れない検討作業をした日は、翌日の別の仕事にまで響くことがあります。

差を生んでいるのは、難しさではなく自動化の有無
この差の正体は、仕事の重要度や難しさそのものではありません。その手続きが自動化されているかどうかです。
繰り返し行われた手続きは、意識的な処理を経ずに進む自動的処理へと移行し、ワーキングメモリをほとんど消費しなくなります。丸つけや出欠確認はこの状態にあります。
一方、初見の指導案検討や不慣れな保護者対応は、まだ自動化されていない統制的処理です。毎回一から情報を保持し、比較し、判断する必要があり、限られたワーキングメモリを大きく占有します。手続きが体に馴染んでいるかどうかが、負荷の大きさを決めている一つの軸だといえます。
自動化は、あるかないかの二択ではない
ただし、指導案検討そのものも一枚岩ではないと考えられます。
何年も持っている教科であれば、検討の中の細かい判断の多くは意識せずに進められます。しかし初めて受け持つ教科では、同じ検討作業でも一つひとつ立ち止まって考える必要があります。「慣れている教科は、自分の中でここまで自動化されていたのか」と、担当外の教科を受け持って初めて気づく方もいるかもしれません。
丸つけと指導案検討を単純に二分するのではなく、自動化の程度には連続的な差があると捉えたほうが正確です。
同じ構造は、研修の場にも現れる
研修で「詰め込みすぎだ」と感じるとき、その不満の実体は、多くの場合、情報の量そのものではありません。その情報を消化する時間とセットで設計されていないことにあると考えられます。
新しい指導技術を一方的に提供するだけの研修は、丸つけではなく指導案検討の負荷を、休憩なしに積み重ねさせているようなものです。受け取った情報を自分の授業のどこに使うか考える時間がないまま次の情報が来れば、頭の中には未消化の断片だけが残ります。情報を渡すことと、それを自分の授業に当てはめて考える時間は、対にして設計する必要があると考えられます。
エビデンス:どこまでが確立していて、どこからが推測か

繰り返しによって手続きが自動的処理へ移行し、ワーキングメモリの負荷が下がる。この構造は、自動的処理と統制的処理の区別(Schneider & Shiffrin, 1977)や手続き的知識の自動化として確立しており、証拠水準は高いといえます。もともと熟達の過程一般を説明する理論であり、対象を子どもに限定していません。
段階的な解法例の提示がワーキングメモリを節約する(worked example効果)ことも、同じくらい高い水準で確立しています。
ただし、これらの枠組みを教員研修という場面に当てはめた説明は仮説です。また、自分自身の負荷を通じて理論を理解することが指導行動の変化につながりやすい、という後述の見立ても仮説の段階にとどまります。
留保:当初の主張は、書きながら取り下げました
この記事は当初、自動化されている作業とそうでない作業の負荷差が大人にも当てはまる、ということを発見のように書こうとして始めました。
しかし調べ直すと、自動化理論はもともと対象年齢を限定していません。大人に当てはまることは、発見ではなく理論の前提そのものでした。この記事が担えるのは新事実の提示ではなく、すでにご自身が経験していることに理論の名前をつけることだけです。
読者はすでに、当事者としてこれを経験している
伝えたいのは、理論を外から説明されるより、自分がすでに経験している実感の中に理論を見出すほうが、行動につながりやすいのではないか、ということです。
自動化の程度には連続的な幅があり、読者自身にも、自動化が進んでいる領域とそうでない領域があります。それと同じことが、教室でも起きている可能性があります。自力解決の時間に取り残されている子どもが感じているのは、初めての教科の指導案に向かうときの、あの負荷かもしれません。
「わかっているはずなのに動けない」のではなく、「動くために必要な余力そのものが足りていない」。そう捉え直すと、打つ手も変わってきます。
この記事自体も、同じ原理の一例にすぎない
もっとも、この発想自体、教えて考えさせる授業が前提としている原理と同じ形をしています。すでに持っている知識を足がかりに、新しい知識を結びつける。この記事もその一例にすぎません。
そして同じ限定が、この記事にも当てはまります。業務や研修の受け手としての経験がまだ浅い読者、たとえば初任者にとっては、この経路そのものがうまく機能しない可能性があります。まだ「疲れ方の違い」を積み重ねる前の段階では、自分の実感を足場にすること自体が難しいと考えられます。
まとめ

丸つけと指導案検討の疲れ方の違いは、自動化がどこまで進んでいるかに集約されます。そしてこの差を、教室の子どもたちも日々経験しているかもしれません。次に机に向かう前に、目の前の作業がどちらの種類の負荷なのか、少しだけ意識してみてください。
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