位取り表を使えば解けるのに、使わずに間違える子がいます。「教えたのに使わない」「配ったのに活用しない」と評価されがちな場面です。この現象自体は、多くの教室で見られるものだと思います。この記事では、まず観察されている事実を確認し、そのうえで、それをワーキングメモリ(WM)の観点からどこまで説明できるのかを検討します。結論から言えば、説明の一部は確立した知見に支えられていますが、全体は仮説の域を出ません。

現場の場面
大きな数を扱う単元。位取り表に書き込めば、どの位に何が入るかが目で確かめられ、桁のミスは大きく減ります。書き方を教えていないわけではありません。一緒に何度も書いた経験もあります。それでも、計算につまずいているその瞬間に、「表を使おう」という選択肢そのものが浮かばない子がいます。声をかければ書き始めますが、次の問題ではまた頭の中だけで処理して、桁を間違えます。
ここまでは観察です。声をかけると使える、放っておくと使わない。簡単な問題では使わずに正答し、難しい問題ほど使わないまま誤る。この行動パターン自体は、教室で繰り返し確認できるものです。問題は、これをどう説明するかです。「意欲がない」という説明は、指導の打ち手につながりません。以下は、WMの観点から立てられる説明の候補です。
構造の解説
構造①:「使おう」という判断自体が、WMを消費する。
WMの余力が残っていない状態では、目の前の数値処理だけで容量がほぼ埋まります。「表を使おう」という判断は、課題を解く処理とは別に、WM資源を必要とするもう一つの認知的操作だと考えられます。処理で飽和している状態では、この判断を行う余力自体が残っていない、という説明です。声をかければ書き始めるのは、教師の声かけが「使おう」という判断を肩代わりしているからだと解釈できます。ただし、観察と整合することは説明の正しさを証明しません。
構造②:外部リソースの使い方そのものにも、自動化が必要。
位取り表のような外部リソースは、WM負荷を下げる設計として有効です。ただしそれは、使い方が自動化されている場合に限られます。「どこから埋めるか」「どの順に確認するか」という使い方自体、最初は練習を要する新しい手続きです。自動化されていない外部リソースは、負荷を下げるどころか、もう一つの負荷として上乗せされてしまう可能性があります。自動化すべき範囲は、解法の中核となる手順だけでなく、それを助けるはずの外部リソースの使い方にまで及びます。
構造③:外部リソースが最も必要な場面で、それが最も選ばれなくなる。

観察の中で最も奇妙なのが、「難しい問題ほど使わない」という点です。ここには二つの要素が関わっていると考えられます。
一つ目は、簡単な問題を通じて起きる学習です。負荷の低い問題では、外部リソースを使わなくても正答できてしまいます。この成功体験が「もう使わなくていい」という判断を強化する、という説明が立てられます(中)。
二つ目は、負荷が高い状況での方略選択です。WM負荷がかかった状態では、負荷の軽い方略が選ばれやすくなる傾向が、方略選択に関する研究で示されています(中〜高)。教室の言葉に置き換えれば、正しく解きたいという思いよりも、早く終わらせたいという思いが勝りやすくなる状態です。しっかり考える必要のある外部リソースより、当てずっぽうでも答えを出して終わらせる方が選ばれやすくなる、と言い換えられます。ただしこの言い換えは説明のための比喩です。研究が示しているのは行動レベルの傾向までで、本人の気持ちが測定されているわけではありません。
エビデンス
確立している(高)のは、WM容量に上限があり、複雑な課題の処理中に資源が枯渇しやすいという点です。また、WM負荷がかかった状態では負荷の軽い方略が選ばれやすくなる傾向も、方略選択研究にある程度の裏付けがあります(中〜高)。

一方、それ以外は推論です。「外部リソースを使おうとする判断」自体がWM資源を消費するという主張、「簡単な問題での成功体験が非使用を強化する」という主張、そしてこれらを結びつけた構造③全体の因果チェーンは、いずれも直接検証されたものではありません(中)。位取り表という具体的な場面への当てはめも、一般的な知見からの応用推論です(中)。
留保
この記事は「もっと良いツールを作れば解決する」という単純化を避けるためのものです。WMという枠組みが正しいとすれば、問題はツールの設計の巧拙ではなく、それを使う判断が必要な構造そのものにあることになります。ただし、この説明が誤っている可能性は残ります。
「教えて考えさせる」との対比
教えて考えさせる授業(OKJ)では、解き方そのものだけでなく、外部リソースの使用までを一つのパッケージとして直接指導することができます。授業の中で、使い方まで含めた練習を全員に行わせられるからです。すでに自動化が済んでいて本来なら使わなくても解ける子も含め、全員が同じ練習を行うため、「自分には要らないのではないか」という判断そのものを子どもにさせずに済みます。構造③が指摘した「使うかどうかの判断」というステップを迂回して、外部リソースの使用まで含めた自動化を直接ねらうことができます。
問題解決型学習では、この設計が取りにくくなります。話し合いの中心になるのは、多くの場合すでに解き方が自動化されている子であり、その子たちにとって外部リソースはそもそも必要ありません。結果として、リソースを必要とする子は、周囲がそれなしで説明を進める中で、自分だけが使うという状況に置かれやすくなります。ここに心理的・社会的な負荷が上乗せされる可能性がありますが、これは筆者の観察に基づく推測です(仮説)。
ただしこれはOKJが無条件に優れているという意味ではありません。使い方の練習時間そのものが確保されなければ、OKJ側でも同じ問題が形を変えて生じうると考えられます。
まとめ

「配ったのに使わない」という現象は、意欲や道具の出来では説明できません。WMの観点からは、それを使うという判断自体が負荷を要するからだと説明できます。この説明が正しいとすれば、打ち手は「使うかどうかを子どもに判断させずに済む設計」と「使い方そのものの自動化」ということになります。説明の当否は今後の検証を待ちますが、打ち手そのものは、現在の知見の範囲で試す価値があると考えています。
次回予告・関連
WM過負荷とインクルーシブ教育の矛盾を扱った記事(D3)、家庭環境と非認知能力の格差が教育格差に変換される構造(B5・メタ構造7)は、いずれも本記事の構造と接続します。

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