「もう解ける子」への反復練習は、本当に時間の無駄なのか

教育

「もう解ける子に、同じ計算を何度も繰り返させるのは時間の無駄ではないか」。そう感じたことはないでしょうか。しかし「知っている」ことと「自動化されている」ことは、認知科学的には別の状態です。この違いを見落とすと、本当に必要な練習まで一緒に削ってしまうことになります。

現場の場面

「3+7は?」と聞かれた瞬間に「10」と即答する子と、一瞬止まってから「10」と答える子がいます。後者をよく見ると、指を折っていたり、視線が宙を泳いでいたりします。頭の中で「3、4、5…」と数え上げているのです。どちらも最終的には正解にたどり着きます。テストの採点欄には同じ「◯」がつきます。だから多くの教室で「もう分かっているのだから、これ以上同じ計算を繰り返すのは時間の無駄だ」という判断が働きます。ドリルを増やそうとすれば、「もう理解している子に単純作業をやらせるのは苦痛では」という声も出ます。しかし、この二人が同じ一問を解くために使っている認知資源は、まったく違います。

構造の解説

「知っている」と「自動化されている」は、認知科学的には別の状態として扱われます。知っている=正しい答えにたどり着く手続きを持っている状態。自動化されている=ワーキングメモリ(WM)をほとんど使わずに、その答えを記憶から瞬時に引き出せる状態。指を折って数え上げて出す正解と、記憶から即座に引き出される正解は、正誤としては同じでも、そこに至る過程でWMをどれだけ消費したかがまったく違います。正答という結果だけを見て評価している限り、この違いは教師の目にも保護者の目にも見えなくなります。

繰り返し練習が退屈に感じられるとすれば、そのドリルという活動の設計そのものが退屈だから、と考えられます。単調な同じ形式の反復、フィードバックのない作業、達成の実感が得られない構成であれば、退屈になるのは当然です。それは「ドリルの設計をどう改善するか」という別の問題であって、「自動化そのものに価値がないから、繰り返す必要はない」という結論には直結しません。「退屈だからやめる」と「自動化は不要だからやめる」は、似ているようでまったく別の主張です。この二つを混同すると、本当に必要な練習量まで一緒に削ってしまうことになります。

自動化と、失敗を恐れず難しい課題に挑戦する姿勢は、対立する価値観ではなく、前提と結果の関係にあります。基礎的な計算や手続きにWMの大半を取られている状態では、そもそも複雑な問題に挑戦するためのWMの余白が残っていません。自動化は、挑戦そのものを可能にするための土台を作る作業だと位置づけられます。

この違いは、次の単元に進んだときに具体的な形で表面化します。たとえば繰り上がりのある足し算の筆算では、一の位を足す、繰り上がりの有無を判断する、繰り上がった数を書く、十の位を足す、繰り上がった数を足す、という一連の手順そのものを新しく覚える必要があります。一桁の足し算が自動化されている子は、この手順だけにWMを集中させられます。いわばシングルタスクとして筆算に取り組める状態です。一方、一桁の足し算のたびに指を折って数えている子は、筆算の手順を覚えながら同時に個々の足し算も処理しなければならず、実質的には二つの作業を同時にこなすマルチタスクに近い状態で取り組んでいることになります。自動化されないまま次の単元、また次の単元へと進むたびにこの状態が繰り返されるとすれば、しんどさが単元を追うごとに積み上がっていくことは、この構造から自然に予想できます。

エビデンス

基礎的な手続きの自動化がワーキングメモリを解放すること、そして自動化されていない手続きを抱えたまま新しい手順を覚えると負荷が重なることは、認知負荷理論および手続き的知識の自動化研究(AndersonのACT-R理論など)に支持される、証拠水準の高い知見です。筆算の例で使った「シングルタスク/マルチタスク」は、この負荷の重なりを分かりやすく言い換えた比喩ですが、負荷が重なること自体は理論として確立しています。一方、「単元ごとにしんどさが積み上がる」「退屈さはドリル設計の問題である」という部分は、そこから導いた論理的な推論であり、単体を直接検証した研究ではありません。

留保

自動化は手順ごとに個別に必要になるものであり、一度自動化すれば他のあらゆる手続きに転移するわけではありません。分数×分数の計算が自動化されていても、その自動化は分数÷分数で必要になる「÷の記号を見たら、後ろの分数をひっくり返す」という判断には転移しません。これは掛け算とは別の手順だからです。「とにかく自動化させておけば、あとは何にでも効く」という話ではない点は、誤解を避けるために明記しておきます。

「教えて考えさせる」授業との対比

教えて考えさせる授業は、教師の説明のあとに理解確認・理解深化という段階を明示的に設けます。説明が先に済んでいるぶん、その後の時間を練習に充てる設計が構造として取りやすくなります。一方、問題解決型学習は子ども自身の試行錯誤に多くの時間を割く設計になりやすく、反復練習の時間が授業の中で確保されにくくなります。結果として、自動化が終わらないまま次の単元へ進んでしまいやすくなります。

ただし、これは教えて考えさせる授業を名乗れば自動的に解決する話ではありません。理解深化の課題に時間を使いすぎれば、練習の時間は同じように消えます。問われているのはどちらの型かではなく、練習の時間を確保する設計になっているかどうかです。

まとめ

「もう分かっている」ように見える子であっても、その中身が自動化されているとは限りません。見るべきは正答率という結果ではなく、その正答にたどり着くまでにワーキングメモリをどれだけ使っているか、という過程の方です。

次回予告

次回は、この自動化がうまくいかないまま蓄積されると、学習方略そのものをワーキングメモリが奪っていくという話につなげる予定です。

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